12月の徳目「忍辱持久」

 今からおよそ2500年前の12月8日、お釋迦しゃかさまはお悟りを開いて佛陀ぶっだとなられ、ここに佛教ぶっきょうの歴史が始まりました。この日を「成道会じょうどうえ」と言います。
 そのお悟りの内容には、「忍辱にんにく持久」(つらいことに耐える)、「四苦八苦」(生老病死はいずれも苦しみ)、「少欲知足」(ちょっと我慢する)などがあります。
 確かに、生きていくことは苦しいことです。しかし、死ぬことも苦しい。どちらか片方がいやだから、もう片方に行けばよいというわけにはいかないのです。
 親鸞しんらんさまの先輩=熊谷直実くまがいなおざねさまは、かつて苦悩のあまり自殺しようとしましたが、その前に、法然ほうねん先生のお話を聞いて思いとどまり、法然門下に入ったあとは、一転、僧侶として充実した日々を過ごしました。
 今社会を震撼しんかんさせている座間の事件を思うと、一番悪いのはもちろん加害者ですが、被害者や国民全般も含めて、社会から佛教の教えが薄らいでいる感じがいたします。
 生きていくと、嫌なこと、悲しいこと、つらいことがいろいろと身の上に降りかかってきます。それらに振り回されない静かで強い心が、お釋迦さまの説いた「忍辱持久」です。
 切れず、くさらず、優しい心を持ち、穏やかに明るく話す子・人には、他の子・人たちが寄りそってきます。それは、幸せの第一歩でしょう。
 お釋迦さまの生き方やお言葉を、かすかいなかは我々一人一人にかかっています。
 成道会、みんなで楽しく、お祝いいたしましょう。

(『園だより』H29=2017年12月号より)

11月の徳目「精進努力」

 11月には、ほとけさまと先人たちへの「報恩ほうおん感謝」を説いた親鸞しんらんさま(1263年旧暦11月28日御往生ごおうじょう)のご恩に報いる催し「報恩講」があります。親鸞さまは、29歳で、20年間生活した延暦寺えんりゃくじ を飛び出して、法然ほうねん先生に入門した後、兄弟弟子でしが数百人いたなか、先生の御著書と肖像画の書写を許される数人に入りました。学業と美術の土台がしっかりと出来ていたためと推量されます。鎌倉時代に90歳まで生きられたことから、体育面の基礎も成っていたのでしょう。9歳以前は母子家庭でしたが、家庭教育もきちんとしていたと思われます。
 ひるがえって保育園を見ますと、乳幼児期はまさに基礎を作る時期です。今月は、年度始めからも年度末からも遠く、園児たちも園生活にすっかり慣れている季節ですが、一日の園生活の流れをつかむ、言葉による伝達ができるようにする、大人の話をしっかり聞く、新しいことに挑戦して出来るようになる、あきらめずに最後までものごとをやり遂げる、集中して課業を務めるなど、0歳児から5歳児まで、努めることはいろいろあります。
 先月の懇談会では、特に、0、1歳児のクラスで、「保育園では行儀が良いようですが、うちでは違うんです」という声が聞かれました。これは、プラス思考に立てば、「我が子はそういう良い要素を持っているんだ」ということになります。小さい子どもにも、それなりに「公私の別」を使い分ける知能が育ってきた、とも言えます。
 11月はいわば、地味な月ですが、「慣れ」が「だれ」にならないよう精進努力してまいりますので、引き続き、よろしくお願い申し上げます。

(『園だより』H29=2017年11月号より)

9月の徳目「報恩感謝」

 蒸し暑い夏でした。途中、梅雨のような雨も続いた少し変な夏でもありました。この間、社会では、いろいろな交通事故や水の事故、特に埼玉の保育園でのプール事故なども起こりました。我々生き残った者たちは、そこから教訓を汲みあげなければならないでしょう。
 今月の徳目は「報恩感謝」。社会や自然の恩に感謝しよう、という意味です。人は一人では生きていけません。色々な要素が自分の身に働いてくれていて、生存しているのです。
 おかげさまで、当園では、子どもたちがまた集まってきて、楽しそうに遊んでいます。
 乳児たちは、はいはいしていた子が走り、喃語なんごだった子がしゃべるようになっています。幼児たちは、盆踊りのふりも、様になってきました。親子で楽しむ運動会も近づいています。
 今月、敬老のつどいでは、お客さんがたがこのお年まで生きてこられた有難さを示してくださることでしょう。また、お彼岸は、ご先祖に我々が存在していることを感謝する日です。
 人はみな、母親の一つの細胞と父親の一つの細胞が合体して、その後、細胞分裂して、今、成り立っています。つまり、我々の体というのは、先祖から受け継いできたものなのです。
 保護者の皆さん、この夏も、仕事に子育てにご苦労さまでした。「報恩感謝」の「報」は、左の「幸」が手かせを表し、右には「服従」の「服」と同じものがあります。そう、職業と子どもを持つことができた人に、労働と子育ては、選択の余地が無い、嬉しい悲鳴なのです。
 就職する前、懐妊する前の気持ちを思いだし、授かった現状に感謝して、また、この現状と取り組みながら、日々、過ごしていきましょう。

 (『園だより』H29=2017年9 月号より)

7月の徳目「布施奉仕」・8月の徳目「自利利他」

 夏です。子どもたちお楽しみの水遊びの季節でもあります。この時季には、七夕の集い、夏のお楽しみ会、お盆お参り、平和の日のお参りなどもあります。
 保育園はスイミング・スクールではないので、水泳技術的なことはあまり教えませんが、身支度、ルール、後始末など、することは多いです。そして、こうした決まりごとをきちんと行なうと、自他ともに楽しい時間を過ごせるのだということが身をもって学べます。
 毎年、第二次大戦が終わった8月15日前後に「平和の日のお参り」を行なうのは、創業者 松岡義雄・きく夫妻以来の伝統です。戦争は、我々われわれ一人一人の心の中にあるがままや欲ばりが究極にまでふくれあがった時、起こるものです。常日ごろから「人のいやがることはやめよう」「人の物を取ってはいけない」という素朴な実践を積み重ねていきましょう。
 7月の徳目「布施奉仕」(すすんで、人のためになることをする)も、8月の徳目「自利利他」(本当に善いことは、自分のためにも他人のためにもなる)も、人々の永年の経験から生まれた智慧ちえと言えましょう。
 保護者の皆さん、日ごろのお仕事・子育てお疲れさまです。夏には、まとまった休みが取れますね。
 当園の近くのコーヒーの自販機に「お疲れ、おれたち」というフレーズが見えます。皆さんも、時にはご自分をねぎらってください。家族みんなで、行楽のルールを守って、ヒヤリハットやそれ以上のことなど起こすことなく、この時季を楽しもうではありませんか。

(『園だより』H29=2017年7・8 月号より)

6月の徳目「生命尊重」

 子どもたち、特に小さい子ほど、触れ合い遊びが大好きです。言葉を話せない赤ちゃんですが、肌が直接接するところから、自他の生命の存在を感じるのでしょう。
 親子、友だち、更には、動植物にいたるまで、いろいろな触れ合いを通すなかから、生命の不思議さ、素晴らしさ、おもしろさ、はかなさを子どもたちは学んでいきます。
 生命というのは、厳しいものでもあります。私たちは、他の動植物の生命をいただかなければ、みずからの生命をつなげない存在です。肉、野菜はもちろん、皮革、木製品、紙なども、もとをたどれば、みな私たち人間が取ってきた生命です。
 先月、降誕会ごうたんえ親鸞しんらんさまの誕生日)の紙芝居を見終わったあと、子どもたちからは、なぜその頃(源平げんぺいの争いの時代)は戦争が多かったのか、なぜ親鸞さまのお父さまはどこかに行ってしまったのかという感想が聞かれました。
 歴史や宗教の高度な知識を持つ彼らではありませんが、どこか、いやだ、可哀想かわいそうと思ったのです。そして、このいやだ、可哀想と思う気持ちこそが大切であり、この気持ちをしっかり守り、育てていけば、子どもたちは、やがて、人権を守り、平和を築ける人となるのです。
 親鸞さまの教えを継ぐ寺々の中から應善寺が生まれ、親鸞さまのお誕生からおよそ800年後、應善寺おうぜんじから和光保育園が誕生しました(1954年)。
 「生命尊重」は先代、先々代より引き継いだ当園の根っこです。皆さまのおかげで、今年も創立記念日を迎えることができました。今後もよろしくお願い申しあげます。

(『園だより』H29=2017年6月号より)

5月の徳目「自戒和合」

 「自戒和合」は、全員が快適な生活を送れるように、各自が自分を戒めようというスローガンです。痛ましい千葉県のベトナム人女児の事件を筆頭に、犯罪は、毎日、起こっていますが、それでも、「自戒和合」のような小さな努力の積み重ねが、被害者をも加害者をも減らすことにつながると信じています。
 その実践にあたっては、極端な「自戒」は、挫折しやすく、かえって目標達成が遠のきますが、ちょっとの辛抱、例えば、引っ込み思案な人なら、一歩踏み出し、出しゃばりな人なら踏み出すのを抑える、ということなら、実行可能でありましょう。
 子どもに「決まりを守れ」と言うのは我々大人のすることではありますが、それには、先ず、子どもにたっぷりの愛情と信頼と感動をそそぐことです。子どもは、他の子といっしょに何かをして、成し遂げた時、楽しさと嬉しさを味わい、人と助け合ってよかったと体験し、決まりの意義を実感するのではないでしょうか。
 5月には親鸞さまの誕生日「降誕会」があります。親鸞さまは、非現実的で極端な「戒」は否定しましたが、その生涯は、心身を壊さず、悪事をなさず、人のために尽くすものでした。本当の善悪を理解した、絶妙なバランス感覚の持ち主だったと言えましょう。
 1歳児でも、ブロックを耳に当てて電話するふりをするように、子どもは、実によく、大人の振る舞いを見ているものです。我々大人は、ちょっとの辛抱をして、よいことに努め、悪いことをしない「自戒」をして、子どもたちに見てもらおうではありませんか。

(『園だより』H29=2017年5 月号より)

合掌聞法 聞いてくれる人が話すことを、子どもは聞く

 皆さま、こんにちは。ともに新年度を迎えることができ、大変うれしく存じます。
 和光保育園は、昭和29(1954)年、私の祖父母である應善寺先代住職=松岡義雄と、初代(先々代)園長=松岡きく夫妻によって創立されました。それ以来、60年以上にわたり、保護者、行政、地域、その他数多くの方々によって、ここまで育てられてまいりました。
 その先々代と先代園長(母 白井耀子)をも見おろしてきた、園庭にある和光の象徴=辛夷こぶしは、花の時期を終えて、若芽を出し、もう一つの象徴=桜は、今まさに満開に向かっています。
 2本とも、これまで枝切りを経てきたのですが、にもかかわらず、というか、そのため、元気に、次々と枝と花と葉と芽を出しています。
 ここに、樹木の「成長しよう! 伸びたい!」という意欲と、植木屋さんの樹木に対する愛情が感じられます。これは、そのまま、子育て、保育に通じるのではないでしょうか。

 4月の徳目は、「合掌聞法」(手を合わせよう。話しをよく聞こう)です。
 「合掌」には、謙虚さ、つまり「自分がこの世で一番偉いわけではない」という精神が込められています。「自分は完璧である」と思いこむと、更に新しいものを学ぼうという意欲は無くなります。
 「聞法」。
 子どもに話を聞いてもらいたいと思ったら、先ず子どもの話を聞いてあげることでしょう。子どもが「ねえ、見て、見て!」「この前、〇〇したんだよ!」と言ってきた時、大人は「本当!」「すごいねえ!」と肯定するのです。
 私は、乳幼児期が安心で、楽しく、物事に没頭でき、またほっとできる日々であってほしいと思っています。そういう場を提供し、その中で日々をすごしていくうちに、子どもは、人の話が聞けるようになってくるのではないでしょうか。
 今年度もよろしくお願い申し上げます。

(『園だより』H29=2017年4 月号の原稿を基に一部改編)

卒園の季節に。「人生のあん、いん、うん、えん、おん」

 早いもので、母である先代より引き継いで、3代目園長となってから(初代は母方祖母)、年度最後の月=3月となりました。この間、歩みのしっかりしてきた0歳児を始め、各年齢の子は、みな一年前にできなかったことができるようになりました。
 3月は、また、別れの季節でもあります。年長の子は、卒園し、私たちのもとを離れていきます。年中児以下は、引き続き、居てくれますが、顔・体は一年前とは違っており、同じままであることは、ありえません。
 しかし、この「変化」が大切なのです。辛夷こぶしに花がいつまでも付いていたら、葉が出ないし、実もみのらないのと同じです。

 さて、この場を借りて、年長児を始めとする保護者の皆さまに、子どもたちのこれからの、人生に大事な「あん・いん・うん・えん・おん」をお話しさせていただきます。

 「あん」は「安穏あんのん」の「安」です。
 「安心、安全」の「安」です。子どもたちには幸せになってほしい。みんな、そのために生きていると言っても過言ではないでしょう。
 「いん」は「因果いんが」の「因」です。
 しかし、その幸せを築くためには、それなりの努力をしなければなりません。ものごとには、みな「原因」と「結果」があります。ですから、勉強ということもするわけです。
 「うん」は「幸運・不運」の「運」です。
 とはいえ、想定外のことも、身の上には起こります。ですから、疾病・事故・災害・犯罪に対する備えも大切になってきます。
 「えん」は「ご縁」の「縁」です。
 私たちがこうして巡り会えたのは偶然ではありません。私たちを引き合わせようという見えない力が働いているおかげなのです。
 「おん」は「ご恩」の「恩」です。
 そういうすべての他の人や自然の恵みのおかげで、私たちは生きています。引き続き、「おかげさま」「お互いさま」「ありがとう」の精神でいきましょう。

 卒園児の保護者の皆さん、長い間ありがとうございました。在園児の保護者の皆さん、これからもよろしくお願い申し上げます。

(『園だより』平成29=2017年3月号より、一部改編)

今月の徳目「禅定静寂」

 2月15日は、涅槃会、お釋迦さまが亡くなった日です。この日の意義は、死、いや、死を通して生を考える、というところにあります。

 人類の平均寿命が短かった紀元前5~4世紀、お釋迦さまは80歳という驚異的な高齢までインド各地を歩いて回り、教えを説いておられました。

 その教えの中心の一つが、「諸行無常」(もろもろのことは、全て、常に一定ということはあり得ない。いつも動き、変わっていく。形のなかったものは形を成し、形のあったものは形を失う)です。その集大成として、自分の発言の「証拠」として、自分の肉体がまもなく滅びる(=死ぬ)ことを、お釋迦さまは、弟子たちに告知します。
 弟子たちは大変な衝撃を受け、「先生がいなくなったら、我々は真っ暗な道を歩くようなものです。一体、どうすればよいのですか」と、うろたえました。
 お釋迦さまは、静かに答えました。「自分自身を灯とし、私の教えを灯としなさい(この2本の灯があれば、道は明るくなり、問題なく歩ける)」と。
 六字熟語で「自灯明、法灯明」と言います。私の大好きな言葉の一つです。
 「法灯明」(師匠の教え)を一方的に聞くだけでは、服従的になってしまい、本人は無思考、無責任になりがちです。
 しかし、「自灯明」も説いたところに、「大丈夫だ。君たち自身もすでに良いものを持っている。自分を信じよ」というお釋迦さまの弟子への信頼と愛情が感じられます。

 そして、いよいよ亡くなる時、お釋迦さまは、「楽しかった」と、自分の人生を肯定しました。
 さすが、人類史上の偉人です。私などは、この年齢で、すでに「ああすればよかった。そうすればよかった」と後悔だらけです。果たして、亡くなる時、こういうせりふが言えるかどうか…。
 黒板が黒いから、チョークの白い線が目立つように、死を思うと、生が見えてきます。
 成道会生活発表会の時、私は、お互い生きていて、こうして会えてうれしい、ということを申し上げました。あの時は、客席の一番前から皆さんを見て、本当にそう思ったのです。
 私事ですが、妻が旧正月で帰省していて、執筆現在、私は、逆「単身赴任」状態です。生活の水準は落ち、貧弱な物を食べていますが、上のようなことを考えていたら、「それでも、俺は今、生きているな。食べている自分がいるな。」と、ふと笑みが浮かびました。そう思うと、日ごろのストレスも薄らぎ、人にも寛容になってくるものです。
 「禅定静寂」は、よく考えて、落ち着いた暮しをしようという言葉です。2月14日(バレンタインデー)ほど有名でない2月15日(涅槃会)のある今月、今、自分と家族が生きていること、亡くなった家族にはその人とともにいた時があったことに、感謝して、日々を送りましょう。

(『園だより』平成29=2017年2月号のもととなった文章。1月26日頃執筆)

鬼に豆をぶつけない節分

 当園の節分では、園児に、鬼へ豆をぶつけさせません。意味が無いからです。鬼は、私たち一人一人の心の中にいるのです。
 人と鬼は、きっぱりと違う二つのものではありません。違いは、人によって、時によって、「鬼」的要素が出るか、出ないかだけです。
 「鬼」という字はもともと「鬼の仮面をつけた人」という意味だそうですが、テロや犯罪の報道に接すると、人こそ「人の仮面をつけた鬼」ではないかと思われます。

 さて、お釋迦しゃかさまには、周利槃陀伽しゅりはんだかという愚かな弟子がいました。しかし、周利槃陀伽は、お釋迦さまの、「ほこりは、いても、また必ず出てくる。では、掃かなくてもよいのか。いや、また出てくるからこそ掃くのだ」という教えを理解し、毎日、掃除に努めました。
 我々の心の中の鬼は、そう簡単に無くなるものではないでしょう。しかし、その数を減らしたり、それが暴れないようにすることはできるでしょう。
 埃は、放置しておけば、コンセントに積もり、発火し、家をも炎上させます。
 私たち各人も、「火事」にならないよう、「鬼は外!」をし続けましょう。

(『園だより』平成27=2015年2月号より)