2月15日は、涅槃会、お釋迦さまが亡くなった日です。この日の意義は、死、いや、死を通して生を考える、というところにあります。

 人類の平均寿命が短かった紀元前5~4世紀、お釋迦さまは80歳という驚異的な高齢までインド各地を歩いて回り、教えを説いておられました。

 その教えの中心の一つが、「諸行無常」(もろもろのことは、全て、常に一定ということはあり得ない。いつも動き、変わっていく。形のなかったものは形を成し、形のあったものは形を失う)です。その集大成として、自分の発言の「証拠」として、自分の肉体がまもなく滅びる(=死ぬ)ことを、お釋迦さまは、弟子たちに告知します。
 弟子たちは大変な衝撃を受け、「先生がいなくなったら、我々は真っ暗な道を歩くようなものです。一体、どうすればよいのですか」と、うろたえました。
 お釋迦さまは、静かに答えました。「自分自身を灯とし、私の教えを灯としなさい(この2本の灯があれば、道は明るくなり、問題なく歩ける)」と。
 六字熟語で「自灯明、法灯明」と言います。私の大好きな言葉の一つです。
 「法灯明」(師匠の教え)を一方的に聞くだけでは、服従的になってしまい、本人は無思考、無責任になりがちです。
 しかし、「自灯明」も説いたところに、「大丈夫だ。君たち自身もすでに良いものを持っている。自分を信じよ」というお釋迦さまの弟子への信頼と愛情が感じられます。

 そして、いよいよ亡くなる時、お釋迦さまは、「楽しかった」と、自分の人生を肯定しました。
 さすが、人類史上の偉人です。私などは、この年齢で、すでに「ああすればよかった。そうすればよかった」と後悔だらけです。果たして、亡くなる時、こういうせりふが言えるかどうか…。
 黒板が黒いから、チョークの白い線が目立つように、死を思うと、生が見えてきます。
 成道会生活発表会の時、私は、お互い生きていて、こうして会えてうれしい、ということを申し上げました。あの時は、客席の一番前から皆さんを見て、本当にそう思ったのです。
 私事ですが、妻が旧正月で帰省していて、執筆現在、私は、逆「単身赴任」状態です。生活の水準は落ち、貧弱な物を食べていますが、上のようなことを考えていたら、「それでも、俺は今、生きているな。食べている自分がいるな。」と、ふと笑みが浮かびました。そう思うと、日ごろのストレスも薄らぎ、人にも寛容になってくるものです。
 「禅定静寂」は、よく考えて、落ち着いた暮しをしようという言葉です。2月14日(バレンタインデー)ほど有名でない2月15日(涅槃会)のある今月、今、自分と家族が生きていること、亡くなった家族にはその人とともにいた時があったことに、感謝して、日々を送りましょう。

(『園だより』平成29=2017年2月号のもととなった文章。1月26日頃執筆)

 前のお話し

 次のお話し