令和5=2023年2月13日

説法するお釈迦さまの絵
(涅槃仏で有名なタイのワット・ポーにて)
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「2月14日は何の日ですか?」
「はい!」「はい!」「はい!」
たくさんの子どもたちの手が挙がります。
「バレンタイン・デー!」
「そうですね」
「では、2月15日は何の日ですか?
今度は、お参り会場が静寂に包まれます。
ややあって、ようやく、一人、二人が手を挙げます。
涅槃会ねはんえです」
「はい、そうです」

当園の涅槃会お参りの時によく見られる光景です。
その実、現代の日本では、大人たちも大体同じような状況ではないでしょうか。
いや、それでも手が一、二本挙がる我が園児たちに比べれば、答えられる大人はもっと少ないかもしれません。

改めて、2月15日「涅槃会」「お釈迦さまが亡くなった日」です。
二千五百年間続いてきた壮大な追悼法要とも言えましょう。

お釈迦さまは、享年きょうねん 八十でした。

人類の多くが原始・未開な段階にあった紀元前五世紀ころ、平均寿命がどれぐらいだったか、私は正確な数字を知りません。
ただ、それから二千年後の織田信長が「人間五十年」と言っていることから類推すれば、お釈迦さまは当時の平均的な人の二倍か三倍、あるいはそれ以上、生きられたのではないでしょうか。

それで、この「享年」という言葉です。
「亡くなった年」と思っている人が世間では多いようで、それは間違いではないのですが、この言葉は、文字どおりに解釈すれば、
けた年」、つまり「この世に生を受けた年数」という意味です。

そのお釈迦さまは、ご自分のご入滅にゅうめつが近づいた時、
甘美な人生だった
と語ったそうです。
これは享年を「〇〇年間、生きてきた」ととらえた発想です。

お釈迦さまの頭の中を走馬灯のように人生がよぎります。
贅沢三昧ぜいたくざんまいを強要され苦痛でたまらなかった宮廷を脱出、出家。
一転して、極貧の苦行生活に入るも、断食のし過ぎで餓死寸前に。
スジャータのかゆを食べて起死回生。
悪魔たちの誘惑を退けて、念願の成道じょうどう
その後の四十五年間に、多くの人を救済。
わが子を失い半狂乱だったキサー・ゴータミーを立ち直らせ、
連続殺人犯アングリマーラを改心させた。
コーサラ国による母国釈迦国しゃかこく侵略の時も、妻子・親族を事前に出家させて、難を免れさせた。
思い出は尽きない、、。」

一方、周囲のお弟子さんたちは、
「お釈迦さまが亡くなったら、この世は真っ暗です。私たちは、何を頼りに生きていけばよいのですか」
と泣きました。
こちらは享年を「〇〇歳で亡くなる」ととらえた発想です。

この残る側の人たちに向かって、去る側のお釈迦さまは、少しも焦らず、恐れず、慰め、励まします。

私がこれまで教えてきたことを信じ君たち自身を信じなさい
この二つの灯りで、道を照らせば、何も真っ暗なことはない。
物事は常に移り変わっていく。
だから、君たちも常に励みなさい。
みんな本当によくやった。
これからは、君たちが自分で生きていく時代だ。
さらば!」

「死」を正視すると、「生」が見えてきます。
お釈迦さまは、身をもってそのことを示してくださいました。

とかく人が避けて通りたがる話題=「死」を正面から扱う。
そこに、涅槃会の貴重な意義があると思います。

社会福祉法人和光保育園 副理事長 白井千彰

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