今月には、「節分」があります。
 当園の節分では、鬼に豆をぶつけません。鬼も子どもたちを脅かしません。
 そもそも、「人か鬼か」「自分か他人か」ということは、絶対的に分けられるものではないのです。
 「鬼はどこにいるか?」と問われれば、「みんなそれぞれの心の中にいる」というのが答です。
 ですから、外に敵役かたきやくを想定して、それに豆を投げつけても意味は無いのです。それどころか、鬼役の人に豆をぶつけることに、もし快感でも覚えるようなことがあったら、それこそ自分の中に、「鬼の心」が目覚めることになってしまいます。
 (私の以前の文章:『鬼か、人か。「節分」を前に阿弖流爲あてるい・ 母禮もれの碑を思い出す』もお読みください)。

 もう一つ、2月には、涅槃会ねはんえもあります。
 ただ、その前に、『子らを思ふ歌』のことを少し述べさせてください。
 最近、テレビの子ども番組『にほんごであそぼ』で、全盲の音楽家 木下航志きしたこうしさんがソウル音楽にして弾き歌いした万葉歌人 山上憶良やまのうえのおくら の『子らを思ふ歌』を聞いて感動したのです。

 「いづくより来たりしものぞ(可愛い子どもは、一体どこから来たものなのだろう)」
 「しろがねも くがねも玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも(金銀宝石も何だというのだろう。子どもにまさる宝物は無いのだから)」

 人形を制作することはできますが、人間を制作することはできません。
 本当に子どもというのはどこから来たのでしょうかほとけさまより与えられたとしか考えられません。
 思えば、配偶者も、更には、この性格や肉体を持った自分も、佛さまから一方的に与えられたものなのではないでしょうか。

 子どもも配偶者も自分も、しばしば理想とはかけ離れ、それを実感する時、人は苦しみます。
 釈迦しゃかさまは、「一切皆苦」「四苦八苦」と説かれました。

 一方、亡くなる時には(=涅槃会)
 「甘美な人生だった」
 と語られたそうです。
 みんな、必ずやって来る「その時」に、こういうふうに語れたらどんなに素晴らしいことでしょう。
 「その子の人生が幸せになってほしい」
 保育の原点も、ここにあります。

 自分の心の中の「鬼」を外に追い出すのは、秋に落ち葉を掃くようなものです。掃いてもすぐに次の葉が落ちてきます。でも、掃けば、そのぶん、確実に道はきれいになります。
 良く考え、落ち着いた暮らしの中から、心の「鬼」を退治していきましょう。

※ 木下航志 『子らを思ふ歌』は、ネット上で見つけられませんでしたが、この歌の作曲者が歌っているものは見つかりました。

 うなりやベベン『子らを思ふ歌 』

 『子らを思ふ歌 』歌詞(原文)と意味(現代語訳)1例
 
 もう一例(いづくより来たりしものぞ、の部分を含む)
 
 もう一例(しろがねも、くがねも玉も、の部分)

(『園だより』令和2=2020年2月号を基に作成)

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