令和5=2023年4月10日

母マーヤーさまの右脇から生まれて
すぐに歩く「誕生仏」
<タイのワット・ライキン
(Wat Raikhing)にて>
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皆さま、ご入園・ご進級おめでとうございます。
今回は、これまでお参りで子どもたちにお話をしてきた体験から、現段階での「奇跡」に対する私の考えを述べさせていただこうと思います。
 * * * * *

お釈迦さまも含め、宗教上の偉人には、しばしば奇跡譚きせきたんがつきものです。
それは、我々現代日本人の目から見れば、時に、「非科学的」「不合理」なものでさえあります。
では、絵本や紙芝居などでこれらの話をすることになった時、子どもに対して、話者はどのような態度を取るべきでしょうか。

(手法一)
「話者は、それらの奇跡が本当にあったと信じ、それをそのまま子どもに話す」
話者がその話を本気で真摯しんしに信じていて、それが内容的にも道徳にかなうものだったら、それはかまわないと思います。
ただ、私の場合、正直、科学と合理主義にどっぷり漬かった現代日本人の一人として、奇跡譚をそのまま信じることは難しいので、この方法は取れません。

(手法二)
「自分はその話を信じていないのに、子どもには本当にあったこととして信じるよう話す」
この方法は取るべきではないと思います。
子ども相手にも、誠意が必要です。
私は、以前、保育園の節分で「鬼」役を演じたことがありましたが、その時は、極力、子どもたちをおどかさないようにしました。
大人はその「鬼」が着ぐるみであることを知っているのに、現実と空想の分別が付きにくい子どもたちをおどすというのは何ともアン・フェアな感じがしたからです。

(手法三)
「その話を『非科学的』としてバッサリ切り捨て、子どもには何も話さない」
この方法を取ると、世の中の少なからぬ童話、文学が滅びます。
面白さも楽しさも消え、これも子どもの育ちにあまり良いようには思えません。

(手法四)
「それらは『たとえ』であると、子どもたちに説明する」
これは、坊さんも含め、現代日本人が最も普通に使っている方法でしょう。
私も用いることがあります。
ただ、園児からの問いに対して答に窮したから、この「譬え」を便利に使うということは、なるべく避けようと思っています。

(手法五)
『奇跡』の中にも何らかの『史実』が反映されているのではないかと考え、調べ、自信が持てたら、その説を子どもたちに話す」
私は、現在、この方法を取っています。
もし、そこに何がしかの史実が反映されているのだとしたら、それを切り捨てたり、「譬え」扱いしてしまったりするのは、もったいないことと思います。
そもそも全くの作り話をゼロから作るというのは、かえって難しいことではないでしょうか。
それより、史実を土台として、それに脚色を加えて「話」とする方が、作る側としてもやりやすいと思われます。
もちろん、中には、後世の人たちが付け加えた作り話と思われるものもありますから、何が何でも「史実」を見出そうとする必要は無いですが。

この作業を進めていくと、一見「奇跡」のような話が実はさほど奇跡でもないことが分かってきます。
そして、それは現代人が現代人に語ることとして、無理なく素直に受け入れやすいものとなることでしょう。

では、次回は、その例として、お釈迦さまのお誕生にまつわる「奇跡」を見ていくことにしましょう。

社会福祉法人和光保育園 前園長・副理事長 白井千彰ちあき

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